関ジャニ∞よ、あまりにも「物語」すぎるだろう。
関ジャニ∞15周年ライブツアー、十五祭はこれに尽きる。
7月も終わりに差し掛かるというのに、未だ梅雨明けしておらず体感湿度90%超えのクソみたいに蒸し暑い名古屋。
今回のセットリストは事前にチェック済みで、SNSに零れ落ちるたくさんの歓喜の声に、私自身もこの日をとても楽しみにしていた。行く前からこんなに高揚感を覚えたのは、いつぶりだろうか。
十五祭の開催が決定した時、GR8ESTの思い出が頭をよぎった。と言っても人間の防衛本能か、関ジャニ∞に関する2018年の記憶はうっすらとしか残っていないが、どこか形式的なコンサート、ボケても何か味付けが足りない空回りした丸ちゃん、笑顔に覇気がない横山くん、決意はあるけど不安が拭えないやすだくん。当時の自分の心象も反映されて、私の目にはそんな風に映っていたと思う。その後の公演を重ねるにつれて、関ジャニ∞もエイターも、少しずつ前に進んでいるのだろうということは伝わってきたが、それでも私にとって、6人になった関ジャニ∞の記憶はそんな印象のままで止まっていて、十五祭は心から笑って祝えるのだろうか?と正直不安だった。
しかし、札幌で十五祭の幕が開き、みるみるうちに元気になっていくエイターたちを見ていると「ああ、これきっと私も絶対楽しめちゃうな」と確信できたのだ。
そもそも2018年の薄暗い気持ちは、OP映像「関八絵巻」の時点で消し飛ぶこととなる。まず「関八」という響き、まだ使ってる人いるんだ〜!!という盛大なツッコミから入った。余談が過ぎるが「関八」ってギャルが使ってそうな語感だよね。
主コンセプトとなっている「1000人から1000万人へ」を戦国時代に模して、古田新太が語り部となって関ジャニ∞の歴史を振り返る映像。この中で、割とポップめに内くんと「袂を分かつ」し、2018年「一人の男の決断の背中を押した」ことにも触れており、書き進めていたらいつの間にかこんな感じの物語になっちゃいましたわ、そんな関ジャニ∞でもかっこいいでしょう?とドヤ顔で言わんばかりの心地よいテンポで進められる。
決してなかったことにはしない。だからこそ、「過去のあれこれも全部武器に変えて戦っていきますから、あなたもそろそろ顔を上げて共に戦ってくださいね。」というメッセージとして、私は受け取った。胸のモヤモヤが少し晴れて、前を向けた気がした。
巷で「オタクが作った」と噂されるコンサートの中身の話も書き残しておこうと思う。
私自身が少ないながらも複数のグループを担当していて思うのは、関ジャニ∞は中でも「ファンの求めるもの」を的にしてボールを投げられる数少ないグループであるということ。たまに理解不能なことをしでかすが、「ファンが喜ぶこと」へのアンテナは人一倍敏感なのではないかと思っている。
その心はというと、例年のツアーの仕上がりにも言えることだが、今回の十五祭はいつにも増して、エイターの潜在的ニーズを掘り起こし「観たいを叶える」公演になっていたからだ。通常、アニバーサリーイヤーのコンサートというのはおしなべてシングル曲、昔の曲、支持が高いコンサートのテンアゲ曲に偏りがちだ。それらもまた、ファンが喜ぶものであるので否定するつもりは一切ないが、さて、今回の十五祭はどうだろう。
昔の曲、と言われれば確かに数年前のものなので昔の曲だが、そこか!!!みたいな絶妙なツボを押さえてくる選曲。特に「Eightpop!!!!!!!」とかヤバイ。(語彙力の低下)
「RAGE」「I to U」「ロイヤルミルクストーリー(日替わり)」「Black of Night」「アイスクリーム」あたりは、世の中で主役にはなってないけど、私の関ジャニ∞ブチ上げプレイリストにマストなんですけど〜!???というラインナップで、なぜ我々の気持ちがわかるのだ…?いつの間にメンタリストDaiGoになったのだ…?と動揺を隠せない一方、ウチら感性オニ似てんじゃん?と私の中のkemioと関ジャニ∞が握手を交わした。
アニバーサリー要素が強くなりがちなシングルメドレーをアンコールに固めたのも潔く、本編とエンドロール、のようなイメージで気持ちを切り替えて楽しむことができた。
「6人になって歩き出した関ジャニ∞」を象徴にしようと思えば簡単だったかもしれない。でも、決してそうはなっていなかった。
「ここに」も歌った。「Crystal」も歌った。しかしそれらはあくまでもこの15年間の関ジャニ∞の一部でしかなく、その歩いてきた道には8人だった時の関ジャニ∞の、7人だった時の関ジャニ∞の足跡が色褪せずに存在していて(実際に映像が流れていたし)。苦しかった思い出も、楽しかった思い出も、この際ぜんぶ歌にのせて楽しくアップデートするよ!そしてまた物語の続きを作っていくよ!そんな印象を受けた十五祭だった。
コンサートに正解はないが、あれこれと雁字搦めになっていたエイターにとっては「これが6人の関ジャニ∞です!」という正義を突きつけられるより、「観たいもん観れるし楽しすぎるわ」と脳みそを空っぽにして楽しめる最高のコンサートでよかったのではないかと思う。誰よりも関ジャニ∞本人たちが関ジャニ∞のファンであるから、実現できることなのかもしれないと感じた。
さて、本題はここからである。
こんなふうに自分で語りながらも、果たして本当に関ジャニ∞は関ジャニ∞の一番のファンであって、この先もずっと関ジャニ∞というアイドルとして生きようとしてくれるだろうか?
という考えがふと頭をよぎったのが、今回の公演でもあったりする。 急に何を言い出すんやコイツは、と思われても仕方がないが、だってあまりにも綺麗に「物語すぎる」ものだから。
関八絵巻が示すごとく、厳しい下積み時代、松竹座は埋めることができないし、いろいろあって7人になっちゃうし、でもドームを埋められるくらいでっかいグループに成長して、さあここからだなっていう時に、夢を追ってまた一人旅に出てしまって、そしたらそんな逆境にも負けずに、進むんじゃない進めるんだぜ!って力強く歩き出すし。そんな屈強な人間いる?ってくらい、長編映画前後編で作れちまうぞ?ってくらい、関ジャニ∞が関ジャニ∞すぎることが少し怖いのだ。
ここで話を再び2018年に戻すと、すばるが脱退することになった時、「この人はアイドルでもあり、等身大の30代男性なんだ」と痛感した。アイドルだからといってアイドルだけで人生で終える必要はなく、40に差し掛かった人間なら自分のキャリアを見つめ直すこともある。
それは渋谷すばるに限らず、他のメンバーにとっても同じことだろう。彼らは"ジャニーズちっく"な美しい物語の主人公Aになるごとく生きているわけじゃない。だからこそ「それでも前を向いて進み続ける関ジャニ∞」なんていうのは我々が都合よく解釈しようとしているに過ぎなくて、その裏には見えない葛藤が存在するし、その大きさは計り得ない。Aに進みますか?Bに進みますか?それとも新しい物語に進みますか?と、行く先が分岐していても何らおかしくはない。
いつまで関ジャニ∞という物語は続くのだろう?続けてもらえるのだろう?
関ジャニ∞があまりにも泥臭くて綺麗でまっすぐな物語を描くからこそ、今こうして私たちの前に立つ6人をそんな風にも見てしまった今回のコンサートだった。
しかし、ジャニオタというのは永遠にこの「ストーリー性」を消費する生き物であるので、結局は何が起こるかわからないジェットコースターに乗り続けるのだと思う。今目の前にいる関ジャニ∞を抱きしめて、その生き様を自分に投影しながらわたしも彼らのように人間臭く生きてみたいと思いを馳せるのだろう。
ゴチャゴチャと書いてしまったが、十五祭を経て、この先また何があってもまあ大丈夫かな、と思えたので杞憂かもしれないね。物語はきっとまだまだ続く。
最後の最後に、安田くんが元気に飛んだり跳ねたり、キレキレに踊ることができるまで回復してくれて本当に良かった。安田くんを支えてくれた人々、安田くんの細胞たち、そして神様にありがとうを言います。これからもどうか健やかでいてください。
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